~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2015年12月17日木曜日

未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈

いつも「被差別部落の暮らし」を応援いただきありがとうございます。さて、“被差別部落”と言う言葉は、
現在、『部落』の一般名称として、書籍などでもよく目にするのですが、
タマに見かける古い書籍では、
“未解放部落”と言う言葉が使われている物もあります。

被差別部落が一般化している現在では、
あまり馴染みがない“未解放部落”とは、
一体どういう言葉なのでしょうか?

実は、未解放部落は、被差別部落という言葉が一般化する
1950年代以前に用いられた言葉で、
意味は、全く一緒です。

部落の呼称は、時代ごとに変遷をたどっていきます。
それは大いに差別性と関係が有ることなのですが、
エタ→新平民→特殊部落などと、新しい語が作られるたびに、
それが、部落を差別する言葉へと変わっていき、
そのたびに、部落に対する“更に”新しい呼称が生まれて来ました。
(部落の呼称については、後日まとめて発表しようと思います)

その一つとして、未解放部落があるわけですが、
この言葉は、『被差別部落』と言う語が一般化した後は、
ある出版物で、特に見ることができます。

それが、『部落問題研究所』の出版物です。
部落問題研究所とは、読んで字の如く、
部落問題を研究する団体で、公益社団法人に認定されています。

所在地は、京都市左京区。
京都の中心街を流れる鴨川の上流、高野川岸にあり、
近くには、部落解放運動史上欠くことのできない超大物人物、
朝田善之助氏の生まれ育ったT部落があります。
(朝田氏は、松本治一郎氏の後を継ぎ、部落解放同盟中央執行委員長
として数々の現代部落史に残る活動を行った)

朝田氏の詳しい経歴等は、又機会を設けるとして、
今回は、部落問題研究所の話に戻しす。

研究所は、先ほど、朝田氏の生まれ育ったT部落の近くにあると書きましたが、
それは、研究所の設立に朝田氏が大きく関わり、
当初は、朝田氏の自宅が研究所として使われていたからでしょう。

実は、研究所はその後、内紛・闘争などの右葉曲折を経て、
現在は、共産党系の運動団体「全国地域運動総合連(=以前の全解連)」の
指揮下に置かれています。

この団体には、朝田氏を始め原田伴彦氏・奈良本辰也氏など、
部落研究の第一人者が所属していましたが、
1960年代後半から表面化した内紛により、
「部落解放同盟」と
「部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連=後の全解連)」に
袂を分かちます。

つまり、部落解放同盟を後押しする社会党と、
正常化連を後押しする共産党との政治闘争に他ならないわけですが、
この頃から、両運動団体の活動にも大きな違いが現れます。

60代以降、行政闘争を本格化させる解放同盟に対し、
同和施策の放棄を全面に押し出した全解連は、
度々対峙。
学生運動の内ゲバさながらの、
暴力を伴う勢力争いが活発化していきました。

前回「見て記・行って記・被差別歩記(みてき・いってき・ひさべつあるき)
でも書いたように、八鹿高校事件もそのような闘争の一つです。

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さて、研究所では、研究成果が本として出版されていますが、
この状況、何かによく似ていますね。

そうです。
解放同盟が母体である「解放出版社」です。

つまり、運動での対峙関係が“部落解放同盟VS全解連”であるならば、
言論での対峙が“解放出版社VS部落問題研究所”と言うことになるのではないでしょうか。
私は、解放同盟系の解放出版社の本も多く読みますが、
対局する部落問題研究所の本も別け隔てなく読んでいます。

ここに、部落問題研究所が1984年に出版した写真集「写真記録 部落」があります。
写真家・藤川清氏が長年撮りためた各地の部落の写真に、
研究所の主要研究者であり、理事を務めた東上高志氏が解説を加えて、
一冊の本に仕上がっています。

今は多分絶版でしょうね。
古本屋を丹念に探せばあるかもしれません。

この本は、不良住宅時代~改良住宅が建ち、
生活の向上が見られ始めた頃迄の、部落の人々や町並、
生業、生活を写し出したとても貴重な写真集です。

写真は、白黒とカラーがありますが、
見どころは、なんといっても白黒写真。
改良住宅が建設される以前、1950年代の写真達です。

・今にも崩れそうな家
・つっかえ棒がしてある家
・屋根に大きな穴がいくつも開いている家
・傾き、戸が閉まらない家
・漆喰が剥がれ雨に洗われ削れた外壁
・屋外に設けられた朽ち果てそうな共同便所
・道端で水を汲み、家事をする人々
・雨がふらずともぬかるんだ道を鍋を持って歩くお母さん
・小さな部屋で雑魚寝する家族
・うず高く積まれた下駄の山
・皮なめし
・熱心に寺社で説法を聞く老人たち
・雨に煙るボタ山
・炭鉱事故で並ぶ棺の数々
・そんな暮らしでも、明るくはしゃぐ子供たち・・・

どれも貴重な写真であり、
実際にあった部落の暮らしなのです。

この本の中、東上高志氏の解説には部落が
「未解放部落」と表記されています。

いや、部落問題研究所の書籍には、
未解放部落が好んで使われています。

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そんな、未解放部落ですが、
私独自の新解釈として、(あくまで、私独自の使い方なので一般的には全く使えません)
次のような解釈をしております。

皆さんは、同和地区という言葉はよくご存知かと思います。
所謂、行政に同和地区指定された部落のことですが、
部落には、もう「一つの部落」があります。

それが、『未指定地区』です。
これは、行政上の言葉ですから、“部落”になんらかわりがありません。
しかし、未指定地区は何らかの事情で、
同和地区指定を受けなかった、
若しくは受けられなかった部落のことです。

だから、同和地区指定が始まる以前は、
どちらも部落で統一されていたわけですが、
指定以降は、地区指定部落(同和地区)と、
未指定地区にわけられるのです。

更に、未指定地区は現在、二極性を持って存在しております。
一つは、地区指定がなされなかったために、部落が解消された地区です。

「えっ!?同和地区指定がなされなかったのに部落解消?」
と思われる方がいるかもしれませんが、
これは実際の話しです。

特に、都市部の部落に多く見られるのですが、
地区指定されず、改良住宅や隣保館などの所謂「同和モニュメント」が
建てられなかったことにより、一般地区化してしまい、
現在では、部落問題の専門家であっても案外「知られていない」事が多いのです。
専門家でも知らないのですから、
一般地区住民には到底わからない。

そんな訳で、現在は、一般地区からの転入者が、
元の部落民を大きく上回っている所が多いですね。

知っているのは、地区または、部落近隣地区の古老だけ。
その古老達も結構な年の方が多いので、
ゆくゆくは、ここが部落であったことが葬り去られるでしょう。

同和地区指定された部落が、
部落問題解消の為にと造られた「同和モニュメント」のせいで、
未だに部落差別や地区差別があるのは皮肉なものですが、
兎にも角にも、未指定地区の一端はこのような状況です。

ここで、
「ん?やけにスギムラは、未指定地区の現況に詳しいなぁ!?」
と思われる方々もおられるでしょう。

そうなんです。
私、スギムラは・・・・

いや、いや、この話の続きはいずれ生立ち編で書くことにして、
未指定地区の続きです。

未指定地区のもう一端。
こちらは、先の未指定地区と両極端をなすのですが、
今尚、差別に苦しみ、且つ同和施策が受けられなかった未指定地区です。
これは、地方や農漁村部落に多いのですが、

◎地区が同和指定を受け入れなかった
◎地区戸数があまりにも少なく、解放同盟が組織できなかった
◎部落の顔役(ドン・ボス)の意向で地区指定を受けられなかった
など・・・

各部落によって種々の事情がありますが、
いずれも、現在も尚、多くの差別事象が見られます。

それはナゼか?

実は、これら地方の農漁村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。

当然、小さくて閉鎖的な農漁村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人々が存在しない閉鎖的な農漁村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありません。

今でも、このような地方の農漁村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。

==============

さて、ここからが私の独自の解釈ですが、
この『未解放部落』という言葉、
実は、「このような劣悪な未指定地区を表す語として使ってもいいのでは」
と考えております。

つまり、同和施策を受け、法律面では同和問題は解消され
(事実は別として)“部落解放”されたとする旧同和地区、又、
大都市に於いて完全解放された未指定地区を解放部落とするならば、
今でも、上記のような劣悪な環境下の未指定地区を
未解放部落と呼んでもいいんじゃないか」ということです。

言葉というものは生き物です。
時代により変化をしていきます。

昨今、度々国語の乱れが指摘されています。
“役不足”や“流れに棹さす”などの言葉が、
実際とは逆に使われているケースが半数を超えたとか・・・

でも、それはそれでいいんじゃないでしょうか?
国民の半数以上が逆の意味で使っているのなら多勢に無勢。
違った使い方が、今度は本流を占めるのです。

国語の将来を憂う学会関係者達は、
多分に危機感を覚えており警鐘を鳴らすのでしょうが、
私などは、このような考えです。

かつて、新たな言葉を作ってきたのは女性達だといいます。
例えば、紫式部の源氏物語などでは、
数々の新語が使われ、
当時の常識から逸脱した言葉とされてきたそうです。
しかし、時代を経るに従って、
それらの言葉が一般語として定着したのです。
なので、『未解放部落」にも新たな解釈ができてもいいのではないでしょうか?

話はそれてしましましたが、
今日は、未解放部落と部落問題研究所について
書いてまいりました。

最後に・・・
私の提唱する新たな『未解放部落』の使い方、
皆様はいかがお考えでしょうか?
よろしかったら、コメント欄にてご意見を聞かせていただければ幸いです。

これからも、部落の暮らしを通じ、
完全なる部落差別解消を唱えるスギムラシンジがお送りしました。


I believe to Buraku disappearance,
and all of racism too

Thank you so much.

My blog 「hisabetuburaku no kurashi」 presidency
Sinji Sugimura


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