~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから読んでいただく事を強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2017年12月9日土曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その8/見て記行って記被差別歩記-5

★お詫び★
この記事を書いていた12月の中頃、
父親が倒れ救急搬送されました。
現在、非常に重篤な状態なので、
落ち着くまでブログを休止させて頂きます。
その為、それまでに公開を予定し、書いていた記事を
取り敢えずUPさせていただきます。
記事の途中で非常に申し訳ございませんが、
書ける状態になれば、続きから再開いたします。
よろしくお願いいたします。

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八千代橋が流失した翌年の昭和35年。
この部落では、一つの大きな事業の誘致活動をきっかけに、
またもや差別と言う辛酸を嘗めることになってしまう。
それが「京都府職員住宅誘致運動」である。
概要は以下の通りだ。
京都府は、府職員住宅建設を計画。
京北町から要請を受けた周山大区は、
川向部落を含む近隣区での建設地の選定に入った。
その要請にいち早く答えたのが、川向部落の地主H氏だった。
H氏は「川向の発展の為になるのであれば」と、所有地を無償提供
することを決意、村をあげて職員住宅の誘致に乗り出した。
府の担当者は「住宅地が無償で手に入るなら」と言うことで、
川向への建設を進めようとするが、当の府職員連がこれに反対することになる。
「実際に入居するのは自分達なのに・・・」と不満を口にする職員連は、
「夜道に街灯がない」「タバコを買うにも一苦労」「近くの駅に急行が停まらない」
などと難クセをつけて建設を阻もうとする。
一見もっともらしいとも思えるが、この難クセは全て差別からくるもので、
職員連は、別地に職員住宅を建設するよう要望を出している。
府の担当者・入居予定の職員、そして川向の役員の三つ巴で協議は難航、
地域発展のためにと、無償で土地を提供しようとしたH氏の気持ちを、
公務員でさえ“差別”で踏み躙る。これが、当時の部落差別の実情であった。
川向地区の端に位置する府職員住宅と旧京北町庁舎
(鉄筋造りの大きな建物)
前出の資料「川向区の歴史」では、当時のやり取りを記録した議事録の掲載はあるが、
残念ながら、住宅が誘致出来たか否かは記載されていなかった。
しかし、現地のフィールドワークから、職員住宅と共に旧京北町庁舎を確認。
何れも現在はその役目を終えており、取り壊しを待つかの如く辺りには
フェンスが張り巡らされてはいたが、この様子から察すると誘致には
成功したようである。

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多くの部落では、住民たちが金を出し合って寺を作るのが慣例であった。
その理由はこの場では書かないが、以前にこのテーマについて書いているので、
詳しくは、そちらを参照願いたい
burakunokurasi.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
寺は、部落民にとっても心の拠り所であったと同時に、
寄り合いを行う為の重要な場所であったし、時には、
抗議や闘争の決起集会の現場でもあった。

川向部落には寺がなかった関係で、住民たちが集まる場所がなかった。
(その後の調査で、川向の村年寄り宅の仏間が広く、
寺の役割を担っていたのでは?と言う報告が


★お詫び★
この記事を書いていた12月の中頃、
父親が倒れ救急搬送されました。
現在、非常に重篤な状態なので、
落ち着くまでブログを休止させて頂きます。
その為、それまでに公開を予定し、書いていた記事を
取り敢えずUPさせていただきます。
記事の途中で非常に申し訳ございませんが、
書ける状態になれば、続きから再開いたします。
よろしくお願いいたします。


       

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