~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2017年9月4日月曜日

江戸時代の牢屋を訪ねて・京都役人村:その5/見て記行って記被差別歩記-5

前回、「丹波マンガン記念館」の話で少し寄り道をしたが、
今回から、本題である「江戸時代の牢屋を訪ねて」に話を戻そう。

江戸時代の牢屋が残るのは、京都市・京北の“*川向(かわむこう)”と言う地区。
【*地区特定に繋がるおそれがあるので、仮名とさせていただく。】

“川向”と言う名が示す通り、川を挟んだ向こう岸、山の斜面に沿った20世帯弱ほどの
小さな集落が、かつて役人村であったこの部落なのだが、この地名の由来こそが、
この部落から見ても『向こう岸』である、本村の枝村(枝郷)だったからである。

即ち、江戸時代以前のムラの相関関係としては、本村が第一で、
枝村は本村に隷属する存在であった。
その為、本村から見た「川の向こう側」と言う地名となっているのだ。

部落(かつての穢多村)は、概ねどこかのムラの枝村となっていることが多く、
独立村はかなり少なかった。

例えば、“安倍晴明の母”とされる『葛の葉(白ぎつね)伝承』が残る、
大阪府和泉市のM部落は独立村であったが、それは村制度上だけの話で、
「独立した穢多村だから差別を受けない」ということは全く無く、
他の枝村の部落と同じく、非常に厳しい差別を受けていたことは、
改めて此処に書くまでもないだろう。

私の手元に2冊の冊子がある。

一つは、『わかば』と題された冊子。
川向地区の識字学級の活動をまとめたもので、
識字で学ばれた方々の作文や、川向の歴史、識字学級で演じられた団体劇のシナリオなどが、
カラー写真付きでまとめられた、非常に貴重な一冊である。
1995年に発行されたもので、些か古い書物ではあるが、
当時の、この地区の詳細を知るには、十分過ぎる資料だ。

ちなみに、識字学級とは、子供の頃、差別や貧困で学校に通えず、
“学ぶ機会”を失った方々が、「無くした時間」を取り戻どす、人生二度目の学校のことである。

「識字」と言う言葉に我々はピンと来ない。
なぜなら、それが当たり前になっているからだ。
読み書きすることが、当然のことであり、常識として意識しないからであるが、
その常識でさえ、部落差別というものは、奪ってしまった。
地域の改善運動が実り、部落の子弟が“当たり前”に学校に通える様になるまでは、
部落では、読み書きができない方々がほとんどであった。

余談であるが、私は部落関係の書物をよく読む。
そのような書物には、決まって古文の資料が出てくるのだが、
学のない私にはチンプンカンプン。
何が書いてあるのか、「なんとなく」さえわからないことが多い。
親切な著者の方であれば、おおよその説明を入れていただいていることもあるが、
その多くは、原文のまま掲載されており、泣く泣く飛ばし読みをしている始末である。

識字学級と比べるには、かなりの飛躍であるが、
学級で学ばれている方々の気持ちが、少しではあるが、わかるような気がする瞬間だ。

そして、もう一冊が、『川向の歴史(建造物の調査)』で、
こちらも1992~3年頃の出版で、発行元が、今はなき京北町になっている。
(現在は、京都市右京区京北)

この冊子こそが、川向に現存する江戸時代の牢屋について、
詳細に調査された報告書なのだ。

今回のテーマである「江戸時代の牢屋を訪ねて」は、
この冊子と、現地でのフィールドワークを元に記述していく所存である。

【その6へ続く】

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