~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年9月25日木曜日

あいつ、部落のくせに・・・【生立ち編-31】

高校生になってからは、中学時代よりも頻繁に夜中に
友人たちと遊ぶようになっていました。

遊び相手は、やはり近所の幼馴染み。
つまり、中学時代の友人が多かったのですが、
その日初めて会ったような、俗にいう「友人の友人」と言うのも、
よく一緒になって集まっていました。

ある時、前出「部落民とのトラブル」で紹介した、
在日韓国人で地元暴走族の友人K君達と
たむろって(集まって)いた時のことです。

その日、K君は隣の地域の暴走族仲間のP君(彼も在日)を連れてきていました。
私は、暴走族の友人は多かったですが、
私自身は暴走族ではなかったので、Pとは初めて会った上に、
その一度しか会ったことがないので彼の顔や素性も全く思い出せないのですが、
この日の出来事は、今でも鮮明に覚えているのです。
__________________________

その日、私達がたむろっていると。
道路の向こうから、金色のファイヤーバード・トランザムがやってきて、
私達の前で停まりました。

スッーと窓が開いて、年の頃なら20歳前後でしょうか。
パンチパーマに剃り込みの「いかにも」って感じの男性が・・・。

「おいぃっ、Kぇ~っ!探したぞぉ~。
お前なぁ、ウチの前通るときは、もっと静かに走らんかぁぃ!
オヤジがうるさいしぃ寝れへんって言うてるんじゃぁい」
と、明らかにシンナーをやっているだろうなと言う口調でまくし立てました。

話がわかりにくいので訳しますと・・・

男性は、KとPと知り合いで、
パンチパーマの男性はヤクザの若衆で、
自分が部屋住みしている親分の家の前を走るときは、
音を最低限にして静かに通り抜けろ!と言うことです。

それまで座っていたKとPは、直ぐにスッと立ち上がり、
手を後ろに組んで「ハイッ!、ハイッ!」と聞いています。
その男性は、周りに座っている私達には目もくれず、
ひとしきりまくしたてて、KとPの「スイマセンでした!」と言う声とともに
ファイヤーバードのアクセルを目ィッパイ開き、
大音響で去って行きました。

2人は顔を見合わせた後、
Pがポツリ「チッ。あいつ!部落のくせに偉そうにすんな!」

聞こえるか聞こえないかのポツリ声でしたが、
私にはハッキリと聞こえたのです。

Kは黙っていましたが、Kにもきっと聞こえていたはずです。

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KとPは在日朝鮮・韓国人で、我が国に於いてはマイノリティーです。
現在は日韓関係の悪化とともに、日本・韓国双方の国民感情も同じく悪化しておりますが、
それ以前は、「韓流ブーム」やワールドカップ・サッカーの「日韓共同開催」など、
日本人が韓国人に対する見方も概ね好意的でした。

しかし、私達が子供の頃(昭和50年代)は、まだまだ在日韓国・朝鮮人に対する
差別は、少なからずあった時代と言えます。
(今日の両国民の感情は「その頃」に逆戻りした感もありますが・・・)
 
同じく、同じ日本国民でありながらマイノリティーとされ、
長きに渡り差別されてきた部落民も、
かつては強固な身分制度によって、
下層に行くほどいがみ合う構造を作り上げられていました。

士・農・工・商・穢多・非人

「上見て暮らすな下見て暮らせ」と、穢多は非人を、
非人は穢多を互いに蔑み、いがみ合う。

弱者やマイノリティーを対象とした差別の連鎖とでも言いましょうか。

__________________________

「○○のくせに・・・」というのは、日常会話でもよく聞きますし、
在日外国人差別・部落差別だけじゃなく、
障がい者やホームレスへの差別なども多く見られます。

今回は、一例としてP君の話をお話しましたが、
このようなケースは、カタチを変えて日々数多く見られる事象です。

また、この頃の私は、依然部落を差別していましたので、
Pと同じ立場でしたら、もしかしたら、同じような事を言っていたかもしれません。 
繰り返しになりますが、互いの理解と努力によってのみ差別は解消されると
私は信じております。
(私自身、まだまだ理解の至らない所も多々ありますが・・・)

部落差別のみならず、あらゆる差別を撤廃することが、
真の平等社会といえるのです。


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2014年9月17日水曜日

部落って怖い!【生立ち編-30】

この所、「行って記・見て記・非差別歩記」の執筆に追われ、
“生い立ち編”が随分お休みになってしまいましたが、
今日は久しぶりに“生い立ち編”です。

こちらのコーナーも、ドンドン進んでいかなければ、
いつまで経っても高校生のままですもんねぇ(>_<)

さて、私が通っていた公立高校は、
今のように、行きたい学校を自由に選択できるのではなく、
当時は居住区で通学圏が決まっていました。

ですから、何校くらいあったのでしょう?
よく覚えていませんが、10校程度の中学校から、
我がH高校へ通学していたのではないでしょうか?


H高校の校区には同和地区はありませんでした。
これまで書いてきました通り、私の出身中学の校区内には
同和地区がありましたが、地区居住の生徒は、
通学圏の定義からH高校へは通えず、隣の高校に通学しておりました。

よって、高校当時は同和教育は無かったように記憶しております。
いや、「人権教育」としてあったかもしれませんが、
あまり覚えていない所を見ると、やはり、
無かったか、あっても大した内容ではなかったのでしょう。

しかし、校区内に部落を含んでいないH高校でも、
近辺に部落があるので、やはり部落の話題はありました。

例えば・・・
「市内の中学でドコが強かった?」なんて話になりますと、
初めは強豪校の話になるのですが、
最後は、「あぁ、あそこは部落があるからなぁ」とか、
「同和の奴はツルんで来るからなぁ」とか、
「あ、そこは朝鮮人が多い地域や!」とか、
大体そういった話につながっていきます。

そして、最後は決まって「部落って怖いねぇー!」
と言う話になるのです。

同和指定校出身じゃなくても、
ある程度の人権教育を受けているのでしょうが、
全く役に立っていないことがよくわかりますね。

さて、今日のテーマ「部落って怖い!」ですが、
はたして、部落って本当に怖いのでしょうか?

それは・・
このブログをお読みいただいている方なら
よくご存知ですよね!!


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水上勉の生家を訪ねて:その3/行って記・見て記・被差別歩記-1

行って記・見て記・被差歩記
        ←その1     「水上勉の生家を訪ねて:その3」    その2→

___________________________

《その2から続く》

サンマイ谷という記述からして、私がまっさきに思い浮かぶのは
-現在の部落民につながる-江戸時代、「穢多・かわた」同様に
被差別民であった「隠坊(おんぼう=隠亡)」の存在である。

隠坊は、各村に少人数存在する「葬送儀礼」に携わる職掌で、
墓場に居住して墓守をし、死者が出れば埋葬を行った。 
村にとっては必要不可欠な存在でありながら、
「身分制度と穢れ意識」により“差別”される人々であった。

隠坊も、詳しく書けば一つの文章になるので、
今回は簡単な記述にとどめておくが、
いずれ、改めて紹介したいかと思う。

水上の生家跡に立ち、先ず目に入ったのは、
青々と茂ったザクロの木と、その背後に迫る鬱蒼と茂った竹やぶだった。

竹やぶは、どうやら先程間違えた場所に続くようだ。

その竹やぶから幾分下方に視線を移すと、
初夏の太陽が照りつけ、明るく開けた現在の生家跡には相応しくない
5.6基程の古めかしい墓石があった。

墓地の区画はもう少し多く、10箇所ほどの区画が切ってあったが、
水差に枯れた花が手向けられている所を見ると、
墓石はなくとも、仏様が眠っておられる事は想像に難くない。

敷地内に墓場があるので、一瞬、
水上家は隠坊か?と思ってみたが、
よくよく考えれば「薪小屋を借りていた」と言うのだから
その線は否定される。

墓石に刻まれた戒名に目を通す。
部落問題を学んでいくにつれ、古い墓石を見ると
「差別戒名では?」と自然に目が行くようになるのだ。

長きに渡り、穢多・かわた(現在の部落民)は、死しても尚、
○○畜男・☓☓革女と言った「差別戒名」を付けられ、
墓に刻まれ差別されてきた。

部落解放運動の高まりとともに、
流石に今では差別戒名が残っている墓が無いことはわかっているが、
人権博物館で墓のレプリカを見て以来、
どうも確認することが癖ずいてしまったようだ。

現在私は、信仰する神仏を持たない無宗教者であるので、
戒名に関する知識は、あまり持ち合わせていない。
少ない知識ながらザッと見たところ、
どうやら、これまで学んだ差別戒名とは異にするようだ。
しかし、定かではないので、念のためメモに書き取っておく。
(後日、確認した所、通常の戒名であることを確認する)

確かに、敷地内に墓があるところから、
一見「サンマイ谷」の名称に相応しいかと思われるが、
村の墓にしては、墓の規模がかなり小さすぎる。

竹やぶの奥まで確認する事を怠ってしまい何とも言えないが、
どうも、この墓は先述の「M林左衛門さん」個人の
墓所であるのではないかと思われる。

ただ、墓の規模の大小はあろうが、水上は幼少時代を、
相当劣悪な住環境で育ったことには間違いない。

この事全てが、水上の残した作品に影響を与えたわけではないだろうが、
少なくとも、水上が生涯持ち続けた差別解消への思いは、
サンマイ谷での暮らしが大きなファクターであることは
想像に難くない。

《人は、人が住まない場所に住み、「乞食」と周りから言われ
差別されたからこそ人の痛みがわかるのだ。》
一瞬・・・。
ほんの一瞬だが、私にはそう聞こえた。

夕焼けに照らしだされる若狭湾に向って微笑む、
貧しいながらもたくましく生きる在りし日の水上少年の姿は、
今も私の心から離れない。

【終】
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2014年9月11日木曜日

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差別歩記-1

水上勉の生家を訪ねて:その2/行って記・見て記・被差歩記-1

 行って記・見て記・被差歩記「水上勉の生家を訪ねて:その1」
からのつづきです。(その1は、↑上記リンクをクリックして下さい↑) 
 __________________________

集落内は、非常に狭かった。
田舎の集落は道が広いイメージがあり、意外に思うかもしれないが、
山が近くにある集落は、案外どこでもこのような造りになっている。

少しでも農地が広いようにと、平地は田畑にしているから、
自ずと民家は山裾に張り付くように建つことになる。
私がフィールドワークで回っている農村型部落もまた、然りである。

だが、一軒一軒の家屋は大きく立派で、
土蔵を備えている家も少なくない。
かつて、ここが「乞食谷」と呼ばれていたとは思えないほどにだ。

案内板から100mも車を進めていないだろう。
おじいさんが教えてくれた公民館が現れた。
「公民館に車を停めて」と言う話だったが、
そこには「駐車禁止!」の看板が。
まぁ、地区住民の方が「良し」としておられたので、
少々気が引けたが、公民館の空き地へ車を停めた。
隣には地元の氏神であろう小さな神社がひっそりと佇んでいた。

車を降りて、私はうろ覚えのままその辺りをウロウロし、
おじいさんが目印に、と教えてくれたビニールハウスを探す。
程なくビニールハウスを見つけたが、どうも様子がおかしい。
「たしか、おじいさんはビニールハウスを左にと言っていたような・・・。」
まぁ、いいかと、右に曲がり、舗装が途切れた山方向へ歩き出す。 

左手に小川が流れる山道は、
周りを覆う竹林のせいで日がほとんど差し込まず薄暗い。
その上、天気が良いのに地面もジメジメと歩きにくいが、
それが、かえって水上の言う「乞食谷」にふさわしい
道のりであるように思えたのだった。

舗装道から山へ入り50mほど歩くと道がなくなり、
(今は忘れてしまったが)そこには鉄塔だったか何かが建っていた。

その場所は、事前に調べた生家跡の写真とは全く異なる光景だったので、 
さすがの私もどうやらコレはおかしいと思い、来た道を引き返した。
山を降り、車へ戻ろうと歩いていると、
前方から件のおじいさんがやってきた。

「あの~。わからなかったです」
というや否や、おじいさんは先程より幾分大きな声で、
「ソッチって言うてへんじゃろ!コッチじゃ!」と。
私の不案内さに呆れたかのように、
おじいさんは反対側の方向を指さした。

すると、その場からでも少し先にビニールハウスがあるのが見えるではないか!
どうやら、“ビニールハウス違い”をしていたようである。 
この間私は、てっきり“おじいさんがわざわざ教えに来てくれたのか”と思ったが、
おじいさんは話し終えるとスッと公民館前の民家に入っていった。
どうもおじいさんの家だったようだ。 

__________________________

車を停めた公民館から僅か30mほどのその場所は、
きっと普通に探しても探しきれないであろう。
左右に民家が建てられた僅か50cm程の獣道のような
“通路”が水上家へ続く“道”である。

左隣にある小さな水路と右手の土蔵の壁に
挟まれた舗装もない通路。
水上生家跡への入り口は、まさに貧困への入り口に相応しいものであった。

そこから少し山へ上がった所に少し広けた場所があり、
おじいさんの言う通り、ざくろの木が数本あった。 
位置的に言うと、先ほどの“土蔵宅”の裏手方面に当たるようだ。
しかし、間に幾ばくかの農地や草叢があることからも窺い知ることが出来るように、
水上の生家は、村からはじき出された様な格好で、
ポツンと一軒だけ存在していたようだ。

水上は、10歳で口減らしのために京都の寺に
出されるまでを、電気も水道もない、
乞食谷のこの地で過ごすことになる。

そこには、相当な貧困と謂れ無き差別があったことは
容易に想像できるのだった。 

水上はこう続ける・・・。
「人間は暮らせないところだということか、
死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、
谷の所有者でM林左衛門(注:著書中では実名)という素封家の
薪小屋を借りて住居にしていた。」

先ほどの集落案内図に戻ろう。
確かに、集落案内図には現在もM林左衛門さんの名が記されているし、
丁度、立地的にも間違いない。

私としては、「公の出版物(水上の著書)に実名を載せても大丈夫なのだろうか」などと 
余計な詮索をしてしまうのであるが、水上とMさんの関係はさておき、
「乞食谷」の「さんまい谷」ということから、益々穏やかではないのである。

ここまでは予備知識として知っていたし、
写真を見たこともあり、大方の想像も働いていたのであるが、
名前から想像するような、暗くジメジメしたイメージと大きく異なり、
実際の「さんまい谷」は明るく、初夏の太陽が目一杯降り注いでいた。

_______________________

その3へ続く。
行って記・見て記・被差歩記
        ←その1     「水上勉の生家を訪ねて:その2」    その3→


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2014年9月7日日曜日

水上勉の生家を訪ねて:その1/行って記・見て記・被差歩記-1

前回、予告編を書きました「行って記・見て記・被差別歩記」。
記念すべき第一回はどこを書こうか悩みましたが、
いちばん最近に行った所を書こうと思います。

では、はじまりはじまり~。
 _________________________
 ◎行って記・見て記・被差歩記-1
(いってき・みてき・ひさべつあるき-1)

「水上勉の生家を訪ねて 」
_________________________

被差別部落から見た現代文学史において
外す事ができない2人の作家がいる。

一人は、自らも被差別部落出身を半ば公言し、
部落をモチーフにした作品を執筆している芥川賞作家「中上健次」。

そして、もう一人は直木賞作家の「水上勉」である。

今となっては、何であったかすっかり忘れてしまったのだが、
以前、何かの折に水上の言葉を見聞したことがある。
 「京都の大学に通っているとき、近くの部落からお母さんと娘とが手を繋いで出てきた。
その頃のことが今でも心に残っている・・・」
うろ覚えで申し訳ないが、たしかこの様な文面であったかと思う。

また、水上は、大阪・浪速部落にある「大阪人権博物館《リバティおおさか》」の
設立に関わり、その銘板を書いていることからも分かるように、
非常に被差別部落と関係が深い作家であるが、
それは、彼の生い立ちに由来するところが大であろう。
_________________________

NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台となった
福井県・小浜市から西へ車で30分。
目の前に広がる小浜湾を眺めながら一息つく。

福井県O町。
5月の太陽は、もはや夏が訪れたように大きく暑い。
海を眺めている空には大きなトンビが「ピーヒャラ」と鳴き、
時折、海面から魚が跳ねる。
それだけでも、この地が自然豊かな街であることを
窺い知ることが出来るのだ。

原発地帯である福井県は、
不思議と被差別部落のある地に原発が建てられている。
同和財源や雇用を確保するためか、
それとも単なる偶然か、理由はよくわからない。

ここO町も例外ではない。
地区内に原発を含むこの地域では、
東日本大震災による原発事故よりもずっと昔(誘致時)から
原発推進派と反対派が村を2分し、現在も尚、対立が続くと言う。

私は、以前から度々この地区を訪れることがあり、
地区内に暮らす人々の話を聞いたことがある。
初めの頃は、反対派の方に推進派寄りの話し方をして
気まずくなったり、又、その逆もしかり。

今は、この地では迂闊に派閥の話をしてはいけない事がわかり、
話し方にも大変気を使うのである。

________________________

海側から国道27号線を越え、地区内陸部へと向かう。
JR線までの所狭しと家が並ぶ地域を超えると、
風光明媚な田園風景が広がる小さな平野に出る。

平野の真ん中に流れるS川は、
水上作品にも度々出てくる、
この地区を代表する川である。

かつて水上が見たであろうS川を眺めながら
しばし物思いにふける。
田舎の川と言うわりには、
お世辞にも綺麗とは言いがたい流れの中に、
大きなニゴイが2匹、3匹と泳いでいる。

やがて、水上がこの地にとどまっていれば
通うことになっていただろうO中学の昼休みを告げる鐘の音に、
私は再度 水上の生家を目指すことにした。

先ほど「小さな平野」と書いたように、
川を中心にした田園から、
左右から迫る山裾に沿う様に小集落が見える。
そんな集落の一つ「O集落」が水上の生まれた地である。

水上曰く、
そのO集落は、「近隣から長く乞食谷(コジキダン)」と
呼ばれていたそうである。

乞食谷とは些か穏やかではないが、
かつてO町内には被差別部落が一箇所あり、
1973年、部落解放同盟の設立が準備されたが、
集落内の融和ムードに押され消滅したそうである。
 
水上が生まれた「乞食谷」がそうであるかどうかは
分からないが、少なくとも周辺から
「乞食谷」と呼ばれるほど貧しく、差別されていた様子は、
その記述を見れば一目瞭然である。
(ある報告によると、「O町内の被差別部落の戸数は30戸」
と言う記述が有ることから、水上の生家の集落ではないかと思われるが・・)

水上は又、こうも綴っている。
「何故、乞食谷と呼ばれているのか今もわからない」・・・と。

_________________________

丁度、O集落の入口に住宅の案内図が掲げられていた。
以前は割りにどこでも見られた光景であるが、
近年、個人情報保護の観点から都会では、
住宅案内板はほとんど見なくなった。
まだそれだけ、この地が長閑だということであろう。

案内図には周辺地区や中学などの公共施設にも、
通し番号が振ってあるのだが、ざっと見る限り、
この地区の戸数は70戸ほどである。
車で集落に乗り入れた限りではわからなかったが、
こうして見取り図を見てみると、
この集落が山と山に挟まれた“谷”であることがよく分かる。

見取り図の14番に「水上」の苗字が見て取れるが、
フィールドワークの前に学んだ知識では、
水上の生家は現在は取り壊され、建物が無い事と、
水上の親類が、今も尚この地区に住んでいるということから、
どうやら、この家は水上の親類宅であるようだ。

案内図にはそれ以上の情報がなく、
途方に暮れていると、道路の反対側でトラクターの
整備をしている方がおられた。
私は車を降り、そこへ駆け寄った。

年の頃なら70歳半ば位のおじいさんであったが、
トラクターの整備をされているところから見て、
まだまだ現役バリバリの農夫なのであろう。

「スイマセン。この辺りに“ミズカミツトム”先生の
生家があると聞いてきたのですが。」

普段は、水上=“ミナカミ”と読む私も、
現地では本名の方が通じるだろうと、
あえてミズカミの読み方で言ってみたのである。

おじいさんは「ミズカミ・・・?」
と、やや怪訝そうな顔をして、こう続けられた。
「ミズカミさんとこは、もう何にもないよ。
随分昔に家も壊してなぁ・・・。
今は空き地にざくろの木があるだけじゃ・・・。」

案の定、おじいさんはミズカミを使っている。
だが、私が気がかりになったのはおじいさんの
怪訝ぶりである。
なにやら、人に知られたはいけない・・・、
なにか重大な隠し事をしている事を知られたような
そんな雰囲気が漂っていたのである。

私は、そのおじいさんの怪訝さに違和感を覚えた。
想像していた応対とは明らかに違った応対だったからであるが、
それは、取りも直さず、水上の生家を尋ねる人がほとんどいないことを
物語っているようだった。

実はこの集落の近くに、
生前、水上が私財を投じて作った「若州一滴文庫」がある。

これは貧しくて本も買えなかった幼少期の水上の思い
-地域の子供達に心ゆくまで本を読んでもらいたい-
という、「長年の思い」が形になったもので、

言わば、私設図書館である。

10年ほど前までは、水上の弟さんが管理をされていたらしいのだが、
弟さんの死後は、町が買い取り運営管理を行っている。
どうやら、殆どの方々は若州一滴文庫止まりで、
生家まで足を運ぶ方は少ないことが
おじいさんの応対から見て取れた。

おじいさんの「お前なぁ・・・一体どこからそんな事聞いてきたんじゃ!」

と、言わんばかりの空気を察した私は、
すかさず「行かんほうがいいですかねぇ?」と聞き返した。

「いや・・・。行ってみてもええけど・・・」と、
おじいさんはゆっくりとした口調で道を教えてくれ始めた。

どうも、私の杞憂だったようだ。

「田舎の方は、案外話下手が多いんだよなぁ」なんて事を、
随分前に死んだ、生涯田舎者だった祖父と姿を重ね思い出した。
おじいさんは続ける。
「ここをまっすぐ行った先の公民館の前に車を停めて・・・云々」

だが、不案内な場所である為、
おじいさんの言っていることの半分しかわからなかったが、
聞き返した所でわからないのは失礼に当たると思い、
おじいさんに礼を言って車に戻った。

その2へ続く。
 __________________________

  
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