~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年2月8日土曜日

田舎の正月と部落(生立ち編-9)

小学生の頃は、夏休みや正月には、母親とともに、祖父母に会いに、
特急列車で4時間ほど掛る母の実家へよく行ったものです。
私が、小学校に入る頃には、祖父も警察官を定年退職し、
実家へ帰って農業をしていました。

以前にも書きましたが、母親の実家は、
代々、村の庄屋をやっており、曾祖父は村長もやっていました。
なので、田畑や山がたくさんあり、 村の人にも貸していたそうです。

あれは、何年前のことだったかよく覚えていません。
小学校の低学年の頃だったと思います。
なので、35年くらい前の話でしょうか?

正月の帰省で、母親の実家に行った時でした。
あと数日で正月という、年の瀬も押し迫った頃でした。
家にお客さんがやってきて、祖母が対応にあたりました。
客人は、今となっては、男性か女性か分かりませんが、
とりあえず年配の方でした。

玄関に入ってきた客人は、祖母に「しめ縄」やらの
正月の飾り付けを渡しており、それを祖母の傍らで見ていました。
客人は、直ぐに帰られて、私に祖母が言いました。
「あの人は、田畑を貸している方で、あそこの部落の人だ」
「部落の人は、しめ縄をつくるのが上手いので、毎年持ってきてくれる」
・・・この様な内容だったと思います。

あそこの部落と言う祖母の指先は、少し離れた山の崖下辺りを
指していました。
祖母の出身は、隣県で和菓子屋を営んでいました。
なので、割と人付き合いもよかったのでしょう。
部落の方も、玄関へ入れて対応しており、
品物もきちんと手で受け取っていましたから、
部落への差別意識もなかったと思います。
(はっきりとは聞いていませんが・・・)

前に、どこかで聞いた事があります。
もう、何十年も前の話を老人が回顧していました。

部落近くの豆腐屋にお使いに行った少年の頃、
「豆腐をくれ」とお金を差し出すと、
オヤジは、「そこにお金を入れろ」という。
見ると、水が張ったバケツが置いてあった。
「部落民は穢れているから、直接お金を貰いたくない。
 バケツで洗ってからでないと受け取れない」と言うのが理由なのです。

昔は、そのような意識が普通でした。
特に、田舎の方がその傾向が強いようです。

祖母が、もし差別意識を持って、
嫌悪感をあらわにしていたらどうなっていたでしょう?
その頃の私は、部落に対しての嫌悪感や差別意識は
かなりのものがあったので、もしかしたら、
今でも、絶対的な差別者になっていたかもしれません。

でも、今、こうしてブログを書いている通り、
そうはなりませんでした。
妻の親類はもちろん、妻の実家近くで 出会う「被差別部落民の方々」も
普通に接する事が出来ますし、普段は「この人は部落民、この人は部落外」
・・・この様に分け隔てる意識すらありません。
フツーの親戚であり、フツーのご近所さんなのです。

しかし、少なくはなってきていますが、
いまだに一部世間に、差別意識があるのは残念なことです。
しかし、私の人生経験からもはっきり言える事は、
「差別はなくすことが出来る!」と言う事です。
このブログを始めたのも、その思いの一つなのです。


部落を皆さんに知ってもらいたい!
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部落を知ってほしい。それが、差別をなくす早道だから・・・

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