~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2014年1月23日木曜日

あの子と遊んだらアカン!(生立ち編-6)

「あの子と遊んだらアカン!」
部落、在日外国人、素行不良・・・
こんな子供たちに、陰で囁かれる常套句です。

かつて、私の近所にも、多くの親から「あの子と遊んだらアカン!」と
言われていた少年が居りました。
話は、35年以上前に遡るので、記憶の断片をつなげるのに大変なのですが、
覚えていることをお話したいと思います。

名前はT君。
年齢は、私より5つくらい上だったと思います。
彼の家は、私の自宅から徒歩で5分ほど。
ですから、同じ小学校だったと思いますが、
小学校で見かけた記憶がありません。
もしかしたら、学校に通っていなかったのかもしれません。

彼の家の前まで、何度か行ったことがるですが、
夜に行った時の光景が、今でも脳裏に焼き付いています。
(ただ、何をしに行ったのか全く覚えていません。
夜のこともあり、友人と面白半分での行動だったかもしれません)

先程も申したとおり、彼の家は、私の自宅から5分ほど。
直線距離にしても、500m以内だったと思います。
自宅周辺には、在日朝鮮人居住者が多かったのですが、
日本人、在日とも普通の暮らし(特別裕福でも貧乏でもなく、
ごく一般的な暮らし)をしておりましたが、
なぜが、T君の自宅の路地5~6世帯だけ、
地域から取り残されたようでした。
昭和40~50年初めですから、市内の道路は
アスファルト舗装が普通であるにもかかわらず、
その路地だけは舗装がなく、家はバラック状で、
裸電球だけが、割れたスリ硝子から、うっすらと明かりを放っていました。

自宅や友人宅には、蛍光灯が明々と灯り、
家庭からは、テレビのこぼれ音と共に家族の笑いが聞こえる・・・
コレがあたりまえの「暮らし」だと思っていました。

T君宅のような暮らしを見たことがなかったので、
あまりにもショッキングな光景でした。


このブログをご覧の方は、ある程度知識を
お持ちの方もおられるでしょう。
私も、当時はわからなかったのですが、今思えば
所謂、「同和施策の施行前の部落の暮らし」その物だったのです。
だが、彼の家は同和地区ではありませんし、その頃の部落は既に、
法律に基づいて 、改良住宅が建てられ、
多くの公共施設が地区内に作られており、
「健康で文化的な、普通の暮らし」が行われていたので、
T君の暮らしぶりは、“非常に劣悪”であったと言わざるおえません。

しかし、悲しいかな、こんな世の中になっても、
この様な“劣悪”な地区は、今尚、全国に散在していると思われます。
その一つが、被差別部落でありながら、
同和施策を受けてこなかった(受けられなかった)「未解放部落」の存在があります。
被差別部落と言うのは、同和地区のことだけではありません。
同和地区というのは、被差別部落の中でも、行政による「施策」を
受けた地域のことであり、未解放部落は、同和地区ではないが、被差別部落なのです。

*スギムラ注:本来、「未解放部落」は共産党系の運動団体であった「全解連」が、被差別部落を指して用いた用語ですが、
当方の解釈として、【解放された部落=同和地区とするなら、
手付かずの部落=所謂、未指定地区を指すのに適しているのでは?】
と言う独自解釈のもと、当ブログでは、未解放部落は未指定地区を指すものと、理解して頂けたらありがたいです。

未解放部落が存在する原因はいくつか考えられます。
例えば、「部落規模があまりにも小さく、部落解放同盟が組織されなかった」、
「地区が、部落解放運動に消極的だった」などということが言えますが、
この事は、いずれ又、機会を見つけてお話させていただきます。

さて、話を戻しましょう。
この様な暮らしをしていたT君ですから、
身なりも、それ相応で、地域の親たちを不安がらせるに十分な格好でした。
それに、コレも貧乏な子供にありがちな話・・・「泥棒」。
貧乏と言えばこんな話、よく聞きますよね。
「給食費がなくなり、貧しい子どもが疑われる」などというケースは
ドラマの格好の常套句でもありました。

T君も、そんな噂が親たちの間で立っていました。
しかし、残念ながら、T君の場合は単なる噂ではなく、
実際に 他人のものを盗んだりしていたようです。

こんなT君でしたが、不思議なことに 親の不安をよそに、
一部の子供達には人気がありました。
「一部 」と言うことは、残りはやはり親の影響でしょうか?
「Tどっかいけ!」
「アホが来たぞ~!逃げろ!」と忌み嫌う子供は実際いました。

私は、タマに遊んだ事がある口ですが、
どの様な事をして遊んだとか、彼の顔さえも
うまく思い出せないのですが、なんというのでしょう?
人を惹きつけるものを持っているとでもいいましょうか?
とにかくそう言う人物でした。

多くの親が「あの子と遊んだらアカン!」と
言うのに対して、私の場合、親には言われなかったです。
又、T(呼び捨て)と呼び捨てにされるケースが多かったのですが、
私の母は、「T君」と 君付けで呼んでいました。
一部の親の中にも、私の親のようにある程度「好意的」に
思っている親もおられましたが、やはり多数は「遊んだらアカン!」でした。

少年時代、後にも先にも「あの子と遊んだらアカン!」という事を
見聞きしたのはT君だけでした。
しかし、今考えればあれが“差別”なんだと思います。
直接的な“差別”なのです。

私は、これまで、被差別部落を始め、在日外国人、身体障がい者の方々への
「差別」について学んできました。
いろんな人がいて、いろんな差別がある。
この事は残念ながら、人間が超えなければならない
「永遠のテーマ」なのかもしれません。
自分と誰かを比べたくなる。
自分より劣っている所を探してしまう。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」は、身分制度時代の格言?でありますが、
他人の(悪い所もあるでしょうが、それ以上に)良い所を見つけて認め、
尊敬できるようになればと願います。



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