~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2017年3月7日火曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章4&生立ち編-41

さて、「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章&生い立ち編」と題し
生い立ち編を絡め、未指定地区の現状等をお送りしてきましたが、
本日は「まとめ序章」の最後として、
なぜ、私が住んでいる場所が被差別部落と分かったのか?
その疑問にお答えしたいと思います。

■ここが被差別部落と知った出来事

それは、今から7年前。
私は歴史が好きで、自宅近くの廃寺跡を探しに行った時のことだ。

暫くあちらこちらとウロウロしたが、
結局廃寺跡はわからなかった。
残念に思い歩いて帰路についていたら、
近くで作業されていた初老の男性がおられ、
「何か手掛かりがないか」・・・と、
廃寺について聞いてみた。

無事、廃寺についての情報も得ることができ、
おおよその場所も教えていただいた。

いくつか地域の話や世間話なども交え、
15分ほど話しただろうか?
何かの拍子に私が自分の住まいが、
〇〇町であることを伝えた。

すると初老の今までの笑顔が陰りを見せ、
急に神妙な面持ちでゆっくりと語り始めた。

「あんたら引っ越してきた人は知らんやろうけど、あそこは部落なんや」

そう聞いた途端、私のこの地区に対する
長い間抱えていた違和感が
すっーと氷解していくのが分かった。

袋小路になった細い路地も、
同和地区に立っているような
隣保館によく似た立派な公民館も、
その時全てが瞬時に理解できた。
点と点が繋がり線になった感覚だった。

私は、これから語られるだろうことが
差別的な内容であることを十二分に予測したが、
同時に、真実の話として、
自分の住まいについての情報、
それがさらに、被差別部落に関することであるということが優先し、
そのまま静かに初老の話を聞くことにした。

「それは私が小さかった頃の事。小学生ぐらいだったと思う」

そう語り始めた初老は、
少しずつ記憶を手繰るように、
ひと粒ひと粒、
言葉を探りながら話しだそうとしている。

しかし、その表情は、
決して思い出したくないであろう昔の記憶。

そう。
まるで昔あった出来事が、
あたかも目の前で再現されているようで、
初老の顔のシワが、
より一層深くなったように見えた。


『ワシは、そこが部落であることを知っていたが、
ある時、好奇心から一人でそこの部落へ入ってみたんや。

親兄弟からも、あぁ、そう言えば友達同士でも
そこが部落であるから絶対に近寄ったらアカンって言うとったが、
好奇心には勝てなかったし、
並んどる家も普通の家で、
街並みも周りと変わらんように見えたしなぁ。

部落に入ってしばらくすると
自分よりもホントに小さい子供。

幼児に近い位の小さい子やった。

その子がワシの前に寄ってきて、
いきなり「ワレどこのもんや、勝手に入ってくるな」と
頭ごなしに怒鳴りつけたんや。

私はいきなりのことで気が動転したんやが、
自分よりもずっとずっと小さい子供に怒鳴りつけられたことが恐ろしくなり、
一目散に逃げ出したんや。

それから60年ほど経つが、
駅の向こう側は今まで一切足を踏み入れたことがない、
正直今でも怖いんや』


その話を聞いて私はこう言った。

『私は、そこに引っ越して10年になるんやけど、
危ない思いをしたことも全くないし、
普通の地区と全く変わりませんよ』と言ったが、
初老は「その時の人らもまだ住んでるやろ」とポツリと言って
口を閉ざしてしまった。

初老は、幼少期のこの出来事を
今でもトラウマとして深く心に残っている。

彼の場合は実体験として受けた出来事が、
60数年経った今でも、
差別と偏見の源になっているようだ。


■“部落”と聞いたその後の話

それから私の部落研究はより一層の熱を帯び、
部落研究とともに、自らの地域の研究に力を入れるようになった。

しかし、前回の頁で書いたように、
未指定地区であるが故、
史料がほとんどと無いのである。

いや、
「残っている・残っていない」の話ではなく、
そもそも、そのような史料が存在しないのである。

ただ、二・三の史料は見つけることができた。

例えば、
江戸時代、隣のエタ村と草場*の取り合いがあり、
奉行所に仲裁を求めた事、
同和関連法施行以前に
幾つかの改善事業が行われていた事等だが、
同和地区指定され、行政の統計報告書が毎年作られる上に、
多くの研究者の研究対象になっている同和地区に比べ、
未指定地区についての史料は見つけ出すことすら困難である。

*草場・・・エタ村の縄張り。
斃牛馬が出た場合、その草場のエタ村が処理権を得た。
旦那場とも言う。

そう言う意味では、
“聞き取り”が一番の史料である。

しかし、地域の古老の口は固い。
過去についてあまり話したがらない。

仲の良い三軒先の古老に昔話を聞くこともあるが、
こちらから何となく部落系に持っていこうとすると、
古老はそれをやんわりと否定するかの如く、
話題を違うほうへ持っていく。

きっと、過去の事、
部落の事について話したくないのが実情であろう。

住民総意で、同和地区指定を受けずに
一般地区として生きていく道を選んだのだから。

声に出さずとも「ここは、部落ではない!!」
と言っているのが気迫として伝わり、
私はそれ以上聞くのをためらって今に至っている。


■“部落”では無くなったのか?

では、私の住んでいるこの部落は、
はたして被差別部落ではなくなったのか?

歴史上の事実としては、
被差別部落であることは間違いないし、
これからも、被差別部落であることに何の異論を唱えることはできない。

つまり、同和地区指定を受けなかったにせよ、
それは行政上の事だけであって、いわば手続きだ。

だから、永久に被差別部落であることには変わりないし、
属地主義の考え方に立てば私も部落民である。

では、住民の意識はどうか?

先に書いたとおり、
もともとは50世帯ほどの部落であったが、
戦後、経済の急成長とともにこの地区は開発され、
田畑が軒並み住宅へ変わっていった。

そして、現在は、400世帯を数えるまでになった。
およそ8倍にまで増えたわけだが、
350世帯は部落外からの転居者、
要するに、部落外の人々である。

しかも、駅から近い立地を生かし、
結構若い方が多く住んでおられる。

また、転居組のご近所さんと話をしていても、
(おそらく・・・おそらくであるが)
ここが部落あるということを知っている方はおられない。

そして、部落の象徴である、隣保館や改良住宅といった
公共施設も建っていない。

住民の意識レベルでは、
「被差別部落では無くなりつつある」というのが現在の状況であろう。

ただ、先ほど登場の初老や、
三軒先の古老(この方は部落民)の中では、
被差別部落はまだまだ生き残っている。
残ってはいるが、記憶から消し、忘れ去ろうとしている。

したがって、未指定地区では
“被差別部落意識”の二極化が起こっているわけであるが、
これは、住民の殆どが部落民であることを意識する
同和地区在住の部落民とは、明らかに意識の相違が見られる。
(法律が終了した現在、法律上は一般地区化した同和地区は、
一般地区住民への旧隣保館の開放、改良住宅の一般公募、
地区外からの同和保育所への受け入れなど、
開かれた同和地区を目指している自治体もある)


■消えゆく記憶と目覚めた記録

さて、これまで述べてきた理由から、
未指定地区の現況をおおよそ掴んでいただけたと思うが、
これからの未指定地区は、
どのような方向に進んで行くのであろうか?

一つは、農漁山村の未指定地区の場合。

これは、まとめ3でも書いたとおり、
おそらくであろうが・・・残念ながら、
これからも劣悪な住環境や
周りからの差別状況に大きな変化は期待できないであろう。

しかし、都市型の未指定地区の場合、
意識レベルでは、ほぼ一般地区といっても間違いないと思われるし、
行政資料や例規、或いは書籍にも登場することがない。

ここが部落と、知っているのは、
年老いた生き証人達。

ただ、失礼ながらこの生き証人達も、
近い将来旅立たれることを考えれば、
記憶については風化していくことであろう。

つまり史実の中では被差別部落であるが、
人々の意識からは消え去るのである。

これは、真の意味での“解放”と言えるに違いない。

いや、違いないはずだった。


しかし事は、突然起こった。
被差別部落であることが風化し、
消えゆく寸前であった未指定地区が、
“記録”として突如目覚めることとなったのである!
しかも、永久に風化することがないその記録が・・・

=================

ここまで、4回に渡って書いてきた「まとめ序章」ですが、
いよいよ次回は、まとめ本編に移ります。

多くの皆様に読んでいただき誠にありがたい限りです。
とりわけ鳥取ループ=宮部氏自身にも読んでいただいている事は、
このテーマも、意義のあるものになっているのではないかと感じております。

更新頻度が遅く申し訳ない限りですが、
これからも「被差別部落の暮らし」をよろしくお願い申し上げます。

スギムラシンジ


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2017年2月26日日曜日

鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40

はじめに・・・
■実はよく実態が分からない未指定地区の現状

「鳥取ループ氏は部落差別推進者か?:まとめ序章3&生立ち編-40」
と、題してお送りしてきました『被差別部落の暮らし』ですが、
ここで、もう一度、テーマの確認と、整理をしておきたいかと思います。

なぜ、今回、鳥取ループ=宮部氏の検証に、
あえて、生い立ち編を持ってきたのか?
それは、今後、まとめ本編において、
この事が重要になってくると、考えております。

それには、未指定地区について、
詳しく述べる必要があるのですが、
実は、現在では、未指定地区の実態が、
わからなくなりつつあるのが実情なのです。

例えば、同じ被差別部落である、
地区指定された「同和地区」に関する本や行政資料・論文は、
それこそ、山の数ほど存在しますが、
いかんせん、未指定地区のことに関してまとめられたものは、
現在のところ、皆無といっていいのではないでしょうか?

タマに、ひと昔、ふた昔前の本で、その存在を、
僅か小稿に見ることができる程度です。

もしかしたら、何処かの大学などで、
専門に研究されている方がおられるかもしれませんが、
それは、とりもなおさず、
「実態が分からなくなっている」と言うことの裏返しなのです。

先に申しました通り、
被差別部落の大部分を占める“同和地区”に関しては、
それらの記録は、こと細かに残っているのです。

それは、何故か?
以下、簡単ではありますが、説明させていただきます。

最後の同和関連の法律である、
地対財特法が終了して、早十余年の月日が流れました。

その法律が終了するまでは、
同和行政は、国・行政の事業であることから、
国や地方公共団体によって、
毎年、詳細な報告書を作成・公開する必要がありました。

その内容は・・・
地域住民の世帯・人口にはじまり、
主な職業や、進学率と言った国勢調査様の事から、
改良住宅の仕様や、同和事業、又その予算など、
多方面にわたる同和地区の実態が、
事細かに記載されていました。

ある地方公共団体では、これらの報告書は、
地対財特法が終了するまで、
約60年程、毎年作成されていました。
(この地域では、昭和44年の同和対事業策特別措置法制定・施行以前の
昭和20年代から、同和地区実態調査として、報告書が作成されていた)

このように、現在は、作成されていない同和地区の実態調査ですが、
これまでの、膨大かつ、長年の調査の積み重ねや、
推移傾向により、現在でも、
同和地区の生活実態を推測することは容易です。

また、同和地区に関しては、部落解放同盟をはじめとする、
各運動団体も、莫大な数の独自の資料を持っており、
そちらの方向からも、同和地区の実態については、
アプローチすることが可能です。
(ただ、運動団体の内部資料については、
関係者=運動員以外、入手・閲覧は難しいが、
知り合いに運動員が居れば、
閲覧ぐらいはさしてもらえるかもしれない)

■翻って、未指定地区の場合はどうだろう?

各種の同和事業や、国行政の補助を、
一切排除し、一般地区化の道を選んだ未指定地区においては、
とにかく、資料の作成という点では、
全くと言って言い程なされていないと思われます。

まず、行政資料ですが、
同和法の施行期間中も、それ以降も、
行政の対応とすれば、「一般地区」という扱いになるので、
前途したような、詳細な資料・報告書の作成がなされていない。

それに加え、運動団体の組織化も行われていない為、
運動団体の報告書・資料にも全く、
存在が挙がってこないのです。

また、現在は、同和地区に対する補助は一切無くなったが、
法律が生きていたころの同和事業は、
税金を投入して行われたため、各市町村の例規集で、
その存在意義の説明をはじめとして、旧隣保館や、
或いは改良住宅の場所や戸数までも、詳細に謳っています。

このような例規は、インターネットでも、
非常に詳細な内容を確認することができるが、
一切の同和事業や、補助を排除した未指定地区については、
それらの記述は、まったく見ることがありません。

以前、部落解放同盟の地方本部施設で、
未指定地区の実態について、お話を伺った事があるが、
対応いただいたプロ?の方も、やはり、
未指定地区の実態は、よくわからないということでした。

部落のプロ?でも、わからないので、
我々自称・素人研究者が、わかるわけがない。

ただ、全国の大学などの研究機関を探せば、
未指定地区に詳しい方がおられるかもしれないが、
もし、そのような方をご存じの、読者様がおられたら、
教えていただければありがたいです。

今日は、まとめの序章も3回目になりました。
未指定地区の研究は、まだまだ未知数なことが多く、
これらの事項は、全くの一部も一部。
かなり、ショボイ研究結果になっておりますが、
少しでも、未指定地区の現状を、
理解していただけるお手伝いができれば光栄です。

スギムラシンジ

■解放には程遠い
~農漁山村の未指定地区~

私は、未指定地区は、2つに別けられるのではないかと、
常々考えている。

一つは先述したように、私が住むような都市型の未指定地区である。
これについては、混住化が進み、もはや、
解放され、一般地区化したと言っても過言ではない。

しかし、未指定地区にはもう一つの型がある。
それが、農漁山村型の未指定地区である。

元々、人口が少なく、人の出入りもない農漁山村は、
被差別部落も零細な部落が多く、
戸数僅か2~3戸と言うような部落が多く存在する。

そのような部落では、今でも劣悪な住環境、
そして、重大な差別に悩まされているケースが多いと思われる。

想像をしていただきたいが、
元々人口が少ない農漁山村では、
その近隣の人々の顔や、名前、或いは居住地までも、
容易に認識することが出来るであろう。
それを承知の上で、以下の記事をお読みいただきたい。

実は、これら地方の農漁山村の未指定地区は、
極小の集落であることが多く、
中には2~3戸の部落までも存在します。


当然、小さくて閉鎖的な農漁山村でありますから、
部落の方々は、面が割れている。

これが大都市の部落であれば、
一歩でも地区外に出れば、もう部落民とはわかりません。

しかし、不特定多数の人が存在しない、

閉鎖的な農漁山村では、
部落民の顔を誰もが知っています。
つまり、外を出歩くだけでも“部落民”と言う事が認識され、
差別を受けます。

もちろん、面と向かって「エタ」などということはなくなりましたが、
陰で「あの人はヨッツ」などと言うのは、珍しくありませんし、

所謂、村八分のような状況に置かれることも珍しくありません。


今でも、このような地方の農漁山村で差別事例が多く見られるのは、
誠に残念なことですし、地区指定を受けられなかった為に、
現在でも、劣悪な環境下で暮らしている部落の方々も、
事実多数おられます。


これは、以前「未解放部落と部落問題研究所。そして独自解釈」
と言う記事の中で書いた、農漁山村の未指定地区の現状に、
一部加筆したものである。

■地区指定をなぜ受けなかったのか?

「それぞれの部落によりそれぞれの理由がある」
一言で言えばこのような表現になってしまうが、
1000箇所の未指定地区が有るということは、
1000個の理由があると言える。

これが本当の答えなのであろうが、
それでは、説明にならない。

ここでは、幾つかの例を交えて解説していきたいが、
一つ言えることは、地区指定を“受けなかった”、
或いは“受けられなかった”のは、
地区住民の意向が優先されたと言うことだ。

つまり、同和地区指定は、行政からの働きかけ以上に、
地区住民(運動団体)からの働きかけで行われたことで、
行政は、それらを認定するだけの役割となってしまったのだ。

◎農漁山村型部落の場合
同和地区指定を受けるには、部落解放同盟をはじめとする、
行政との窓口になる運動団体を設置せねばならなかったが、
農漁山村型の部落の場合、戸数2~3戸の部落が多く、
実質的に、運動団体を組織することが出来なかった。

◎同じく農漁山村型の部落
都市との隔たりがあり、温度差があった。
情報の伝播が遅れていた。

◎都市近隣部落・都市型部落の場合
産業や農業基盤がしっかりと確立しており、
部落といえど、経済的には恵まれており、
一般的水準の生活が営まれていた。
そのため、同和地区指定を受け、
同和施策を享受する必要がなかった。

◎思想的な背景
所謂。「寝た子を起こすな」的な考え方をする住民が多い場合、
同和地区指定を受けることは、事を荒立てるとして、
これを拒否した。

◎政治的な背景
政治的に、地区指定を拒んだケースも有る。
特に、共産思想の住民が多い場合には、
地区指定を受けなかった。

◎地域の有力者
地域の有力者が、地区指定を拒むケースが有る。
特に、指導的な役割をしていた「寺社」の意向が
反映される事が多かったという。

◎利権(地域の有力者Ⅱ)
利権というと、同和利権が頭に浮かぶだろうが、
例えば、このようなケースも有る。

ある部落で、その部落の住民を多数雇う
土建業の親方(ボス)がいたとしよう。

土建業の親方は、
相場より安い賃金で部落の人を雇い、
膨大な利益を得ていた。

そんな中、下手に同和施策を受け入れ、
住民の生活が向上し、オマケに仕事まであてがわれたら、
商売上がったりである。
そのため、ボスの意向で、
同和施策を受け入れる事を拒んだ。

幾つか、例を上げたが、
このような理由で、同和地区指定を受けなかった
(受けられなかった)わけであるが、
中には、部落を二分する、
激しい抗争が起こった地区があったことを
付け加えておかなければならない。

■【参考】法律施行以前にもあった同和事業

ここでは、同和地区指定の話に関連して、
参考として、以下のコラムを設けることとしよう。

実は、同和事業は、1969年の同和対策事業特別措置法の
施行により開始されたという見解が一般的だが、
実は、それ以前にも、同和事業が行われていた例がある。

京都市では、行政闘争の先鋒となった昭和26年の
『オールロマンス事件』を契機に、
早くも、2年後の昭和28年、K部落に於いて、
団地型改良住宅の建設を行っている。
その後、順次、市内の被差別部落でも、
改良住宅が建設されている。

又、それに伴い、昭和35年には、市内5箇所の
同和地区指定を行っている。
同法施行の9年も前の話だ。

また、それ以前の記録では、
京都市に於いては、社会事業の名の下、
既に大正8年には、H部落で、託児所が建設されているし、
大阪府に於いても、大正7年には、
部落改善事業の兆しが見え始めている。

特に、三重県では、明治38年に、
全国に先駆けて行政主導の
部落改善事業が行われたと言う記録がある。

何らかの資料からの覚え書きによると、
明治・大正期に主流を占めた、
民間主導の融和事業とは異なり、
言わば、後の同和事業のハシリであると言えよう。

この様に、国による本格的な同和対策事業以前に、
国及び、地方自治体に於いては、
独自に社会事業或いは、同和事業の名目で、
部落の生活改善に取り組んだケースもあったが、
それは、まだまだ、断片的なもので、
本格的な部落改善事業によって、
部落民全体の生活向上が見られるようになるには、
やはり、同和対策事業特別措置法の施行を待たねばならなかった。

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