~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2016年10月31日月曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その4/見て記行って記被差別歩記-4

さて、改めて北山十八間戸の考察をしている間、
15分ほどで、「奈良県同和問題史料センター」へ到着した。

・・・いや、実は、簡単には到着しなかったのである。

と、言うのも、奈良県同和問題史料センターは、
県道から一段下がった場所に立地しており、
不覚にも、一度通り過ぎてしまったのだ。
グーグルマップより
少し走ってから気がつき、
同和問題史料センターの裏をぐるっと回る形で、
史料センター迄戻ってきた。

近隣を一周し、史料センターへ入るスロープを下ってビックリ。
駐車場には車が満杯で、人の出入りも多く、
かなりの混雑ぶりを見せていたからだ。

しかし、人々が出入りしているのは、
史料センターではない。

この敷地には、隣接して「奈良県人権センター(旧奈良県解放センター)」があり、
そこへの人の出入りが激しいのである。



些か、話は変わるが、
過去は、解放センターとして、
部落解放同盟の拠点であった「奈良県人権センター」は、
現在は公益財団法人となっており、
人権センターのHPを覗いてみると・・・

行政・教育・運動にたずさわる各機関・
団体の有機的連携を図るための施設を提供及び同和問題等について、
より一層県民の理解、協力を得るための普及・啓発活動の促進等。

差別・偏見の防止・根絶:人種、性別その他の事由による不当な差別
又は偏見の防止及び根絶を目的とする事業

と、その存在理由がうたわれており、
人権センター二階には、部落解放同盟の奈良県連が置かれている。

平時の昼下がりに、多くの人々が出入りしているのには、
かなりの違和感を覚えたのだが、
それよりも、なにより私の目を引いたのが、
建物正面に置かれた「荊冠旗」を掲げた彫刻である。

と、言うのも、かの「同和関連」の法律が全て終了してからは、
それまで大きく掲げられてきた荊冠旗が、
旧解放センターや、同盟事務所、関連施設から次々に取り外されており、
今となっては、建物に掲げられた荊冠旗を、
殆ど見なくなったからである。

余談ではあるが、今から、約20年ほど前、
浪速部落にあった、芦原病院の荊冠旗を初めて見た時、
そのスケールの大きさに度肝を抜いたのが、
昨日のように懐かしい・・・。


又、ここには、「奈良県人権センター」、「奈良県同和問題史料センター」に加え、
(後に、ネット検索をしていて分かったのだが)
もう一つ、一般財団法人「奈良県人権部落解放研究所」と言う施設があるようだ。

Wikによると、一般財団法人とは、

一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(一般社団・財団法人法)に基づいて
一定の要件を満たしていれば、事業目的に公益性がなくても設立できる法人である。
機関は理事、監事、評議員から成る。

原則として、株式会社と同様に、全ての事業が課税対象となる。
設立許可を必要とした従来の財団法人とは違い、
一定の手続き及び登記さえ経れば、主務官庁の許可を得るのではなく
準則主義によって誰でも設立することができる。

この様に説明されている。
部落解放同盟との関係はどうなんであろう?

HPからは、よくわからなかったが、
唯一、書籍紹介のページに、以下の本が紹介されており、
「テキストとしても活用されています」等というくだりを読む限り、
部落解放同盟との関係云々と言うよりも、
どうも、解放同盟内の研究機関のようである。

とにかく、この地は、
人権・部落関係の施設が集まっており、
さながら、奈良県に於ける、「人権銀座」の様相を呈している。

さて、気になる、人権センターへの“人の出入り”の真相であるが、
残念ながら、今日は、夜も更けてきた。

今回のテーマ『坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸』
とは、大きく異る展開になってきた感がなきにしもあらず。
キチンと本編も押さえることを約束して、
次回に続きたい。

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2016年9月30日金曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その3/見て記行って記被差別歩記-4

~~~はじめに~~~
長らく、当ブログを休んでしまった事、お許し下さい。
理由は、一にも二にも、「ズルズル病」です。
忙しさにかまけ、「明日書こう、明後日書こう」と言っている間に、
ズルズル・ズルズル・・・こんなに期間が過ぎてしましました。
又、「見て記・行って記・被差別歩記:北山十八間戸」の
話の途中で休眠してしまったことも、併せてお詫び申し上げます。

これからも少しずつではありますが、
前進していく所存でありますので、
皆様、これからも引き続き、よろしくお願いいたします。
スギムラ シンジ

===============

さて、奈良県同和問題研究所へ向かう間に、
もう一度、北山十八間戸について整理しておこう。

先ずは、下の文章を読んでいただきたい。

「鎌倉時代の中頃、僧「忍性(にんしょう)」が不治患者救済のため、
北山(奈良の北の山という意)に宿舎を設けたもので、
はじめ、般若寺の東北に建立されたが、
永禄十年に焼けたため、寛文年間に、
東大寺・興福寺の堂塔を南に眺められて、
不幸な人々の養生にふさわしい今の地へ、
鎌倉時代の遺風を承け継いで建てられたものである。
建物は、十八の間数のほかに仏間をつけ、
裏戸に『北山十八間戸』と縦に刻書がある。
大正十二年三月三日、慈善事業の遺跡として史跡に指定された」

これは、北山十八間戸に掲げられた、
案内看板の文言である。

先にも書いた通り、鉄門扉の中に設置されている上に、
案内板の字が、今にも消えかかっており、
些か読みにくかったが、それは、取りも直さず、
ハンセン病が過去の病として、社会からの忘却がなされるが如く、
北山十八間戸も、世間の関心を失いつつ有るようにも感じ取れるのであった。
グーグルマップより

この案内板からもわかるように、
北山十八間戸は、最古級の癩者救済の為の福祉施設なのであるが、
この施設を語る上で、忘れてはいけないのが、
鎌倉期に、生涯をかけて福祉事業に尽力した孤高の僧、忍性の存在である。

良観房忍性坐像
忍性像:ウィキペディアより
折しも、先日まで、奈良国立博物館において「忍性生誕800年記念展」
が行われていた。
次の文章は、そのHPより忍性の略歴を抜き出したものである。

良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)は、
建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。
早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、
西大寺の叡尊(えいそん)を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、
貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。
特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話
(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。 
 後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、
より大規模に戒律復興と社会事業を展開しました。
人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。
(奈良国立博物館 忍性展HPより引用)

◎9月19日に終了した忍性展であるが、
HPは現在も残っている。
アドレスを記しておくので、興味が有る方はご覧頂きたい。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2016toku/ninshou/ninshou_index.html

文中にも有るように、西大寺・叡尊を師と仰ぎ、
福祉活動に尽力したのであるが、
一説に、その根底には、奈良時代・聖武天皇の后、
光明皇后の存在があったと言われている。

光明皇后(光明子)は、あらゆる策を用いて、
出身母体である藤原家(これまでは、内親王から皇后が選ばれていた。
皇族意外からの皇后は光明子が初めてである)の
威信を守るべく奔走した「政争人生」を送ったが、
その反面、仏教信仰にも熱心で、
法華寺の建立や東大寺の大仏建立を成し遂げた他、
福祉活動にも精力的で、同じく仏教による国造りを行った聖徳太子に習い、
皇后宮職として、施薬院や悲田院を官職として制定した慈悲深い人物でもある。

特に、光明皇后が、ハンセン病患者(癩者)に施した行いは、
光明皇后の人物を語る上でも有名なエピソードである。
簡単ではあるが、そのエピソードを紹介したい。

福祉活動に熱心であった光明皇后は、
法華寺の「から風呂」(サウナのようなもの)で、
千人の病人や浮浪者の体を洗い清めることで、
「病気治療や民の幸せを願う」と言う願掛けを行った。

ところが、999人目を洗い終えたところで、最後の一人。
皇后の目の前に現れたのは、重い癩病者であった。

癩者の皮膚はただれ、そこからウミが吹き出し、
「から風呂」の中は、異様な臭気に包まれた。

千人目の癩者は、「体中が痛くてたまらん。
どうか、私の膿を吸い出してくれないでしょうか」と、
皇后に悲願した。

それを聞いた皇后は、何の迷いもなく、
癩者のウミを吸いだした。

すると、程なくして、
癩者は阿閦如来(あしゅくにょらい)に姿を変えたと言う・・・・。

もちろん、これは、後に作られた物語の類いであるが、
このような話が語り継がれるように、
非常に慈悲深い皇后であったことに間違いはないであろう。

===============

さて、忍性に話を戻そう。

忍性の福祉精神の根底は、光明皇后であるが故に、
仏に帰依しても尚、癩者をおぶりまちに向かい、
北山十八間戸やその他の救済施設で、
病人や孤児の面倒を見る事こそが、
彼のライフワークであったのだ。

その活動ぶりは、忍性が師と仰いだ叡尊をもってして、
修行そっちのけで、福祉活動を行う忍性を、
「慈悲二過ギタ」と言って批判している。

つまり、独立した共同体のように思われている非人宿であるが、
実は、この忍性のように、或いは、
各地の寺院の庇護のもとに成立していたのである。

北山宿に設けられた、癩者救済所「北山十八間戸」の
概要は以上であるが、詳細については、
同和問題研究所でお伺いした話とともに、
次回、お伝えしたい。


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2016年4月2日土曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その2/見て記行って記被差別歩記-4

遠くに若草山を望む朝の遺構は、行き交う人もなく、
ただただ静かに朝日を受け、光り輝いていた。

「1.2.3・・・」
私は、3年前に訪れた時と何一つ変わらないその遺構を、
もう一度、端から端まで歩いてみた。

「4.5.6・・・
確かに18に仕切られている」

改めてゆっくりと数えながら歩いてみると、
その名の通り、18に仕切られた小部屋があった。

その一つ一つに“裏扉”が設けられており、
今にも消えそうな字で、一扉毎に「北山十八間戸」と縦書きされていた。

“裏扉”・・・
そう、ここは、十八間戸の裏側なのだ。

道路より一段低い建物は、
手を伸ばせば屋根にこそ、手が届きそうではあるが、
残念ながら、周りをぐるりと金網フェンスで取り囲まれているため、
建物正面を覗くことは出来ない。

しかし、一見すると寺のようにも見えるそれは、
建築物としては、独自の構造を持つものであった。

(グーグルマップより)

それを説明するには、まず、立地を見てみよう。

坂の中腹に位置する十八間戸は、
丁度、海の岬のように、丘陵の突き出た場所に、
崖側を正面にして建てられており、
裏側が通りに面するという特異な建て方であること。

又、今でこそ、周りには家が立ち並ぶ住宅街となっているが、
古くは、この地には墓が立ち並ぶ葬送の場であった事があげられる。

次に、建物であるが、
「十八間戸」というだけあり、平屋建ての非常に長い建物であるが、
内部は、仕切られた部屋だけなので、それに見合う奥行きがなく、
見た目には、古城の渡り廊下のようで、
「妙に“薄い”建物」と言う印象があるが、
最も、現在で言うならば、アパートやマンションのように、
横長の建物が普通に見みられるので、
言うならば、十八間戸は、住居効率のよい集合住宅のハシリみたいなものであろう。

ただ、先程も述べた通り、その立地に於ける建物構造は、
建物自体が『塀』のようになっており、
あたかも、外界との接触を拒んでいるかのように見て取れる。

===============

私は、しばらくその場に佇んだあと、
しばしあたりを見回し、中への入り口を探したが、
建物西側に、どうやらそれとわかる鉄門扉を見つけた。

しかし、意外にも、その鉄門扉の辺りには、
十八間戸の由来を示す案内板と、名を記した石碑とともに、
大量の植木鉢やプランターなどが置かれており、
隣接したお好み焼き屋さんの庭のようになっていたのである。
(グーグルマップより)

いや、隣接と言って良いのだろうか?
十八間戸は、この、お好み焼き屋(以下“お好み”と略)さんと、
一部敷地を共有しているようで、
権利関係が一体どうなっているのか知る由もないが、
どうやら、このお好みさんが、十八間戸を管理しているようであった。

私は、再度辺りを見回したが、
どうもそれ以外に出入り口はないようなので、
お好みさんの引き戸に手をかけた。

暖簾が掛かっていないばかりか、
幾ばくか商いを営んでいるような気配がないお好みさんの扉は、
案の定開くことがなく、呼び声にも応答がなかった。

私は、がっかりと肩を落としながらも、
とりあえず、全貌を見ようと、
お好みさん横の階段状の道を降り、
周りを一周してみることにしたが、
だが・・・と言うか、しかし・・・と言うか、崖の上の建物が見えるはずもなく、
うなだれながら、再度、十八間戸の裏口へ戻ってきた。

すると、それまで人っ子一人見なかった私の前に、
腰を曲げたおばあさんが、ゆっくりと歩いてきた。

「あぁ、あそこなら、町内会長さんが鍵持ってますよ」・・・

などという、嬉しい言葉を期待していたが、
返ってきた言葉は、
「あのお店に声掛けはったらよろしいいわ」・・・と言う、
ある意味、当然といえば当然の答えが返ってきたのだった。

これで、お好みさんの管理が決定的になったわけで、
その肝心のお好みさんが居ないことにはどうしようも無いので、
私は、このフィールドワークで見出した幾つかの疑問を晴らすべく、
その足で、北山十八間戸の研究に明るい
『奈良県同和問題関係史料センター』へと向かった。

【その3へ続く】
================

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