~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
          私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと

          “心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。

          政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、

          職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、

          多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、

          部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。


         ※「生い立ち編」は、長期連載になります。少々長くなりますが、初めから

          読んで頂くことを強くお願い申し上げます(コチラからどうぞ)

2016年4月2日土曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その2/見て記行って記被差別歩記-4

遠くに若草山を望む朝の遺構は、行き交う人もなく、
ただただ静かに朝日を受け、光り輝いていた。

「1.2.3・・・」
私は、3年前に訪れた時と何一つ変わらないその遺構を、
もう一度、端から端まで歩いてみた。

「4.5.6・・・
確かに18に仕切られている」

改めてゆっくりと数えながら歩いてみると、
その名の通り、18に仕切られた小部屋があった。

その一つ一つに“裏扉”が設けられており、
今にも消えそうな字で、一扉毎に「北山十八間戸」と縦書きされていた。

“裏扉”・・・
そう、ここは、十八間戸の裏側なのだ。

道路より一段低い建物は、
手を伸ばせば屋根にこそ、手が届きそうではあるが、
残念ながら、周りをぐるりと金網フェンスで取り囲まれているため、
建物正面を覗くことは出来ない。

しかし、一見すると寺のようにも見えるそれは、
建築物としては、独自の構造を持つものであった。

(グーグルマップより)

それを説明するには、まず、立地を見てみよう。

坂の中腹に位置する十八間戸は、
丁度、海の岬のように、丘陵の突き出た場所に、
崖側を正面にして建てられており、
裏側が通りに面するという特異な建て方であること。

又、今でこそ、周りには家が立ち並ぶ住宅街となっているが、
古くは、この地には墓が立ち並ぶ葬送の場であった事があげられる。

次に、建物であるが、
「十八間戸」というだけあり、平屋建ての非常に長い建物であるが、
内部は、仕切られた部屋だけなので、それに見合う奥行きがなく、
見た目には、古城の渡り廊下のようで、
「妙に“薄い”建物」と言う印象があるが、
最も、現在で言うならば、アパートやマンションのように、
横長の建物が普通に見みられるので、
言うならば、十八間戸は、住居効率のよい集合住宅のハシリみたいなものであろう。

ただ、先程も述べた通り、その立地に於ける建物構造は、
建物自体が『塀』のようになっており、
あたかも、外界との接触を拒んでいるかのように見て取れる。

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私は、しばらくその場に佇んだあと、
しばしあたりを見回し、中への入り口を探したが、
建物西側に、どうやらそれとわかる鉄門扉を見つけた。

しかし、意外にも、その鉄門扉の辺りには、
十八間戸の由来を示す案内板と、名を記した石碑とともに、
大量の植木鉢やプランターなどが置かれており、
隣接したお好み焼き屋さんの庭のようになっていたのである。
(グーグルマップより)

いや、隣接と言って良いのだろうか?
十八間戸は、この、お好み焼き屋(以下“お好み”と略)さんと、
一部敷地を共有しているようで、
権利関係が一体どうなっているのか知る由もないが、
どうやら、このお好みさんが、十八間戸を管理しているようであった。

私は、再度辺りを見回したが、
どうもそれ以外に出入り口はないようなので、
お好みさんの引き戸に手をかけた。

暖簾が掛かっていないばかりか、
幾ばくか商いを営んでいるような気配がないお好みさんの扉は、
案の定開くことがなく、呼び声にも応答がなかった。

私は、がっかりと肩を落としながらも、
とりあえず、全貌を見ようと、
お好みさん横の階段状の道を降り、
周りを一周してみることにしたが、
だが・・・と言うか、しかし・・・と言うか、崖の上の建物が見えるはずもなく、
うなだれながら、再度、十八間戸の裏口へ戻ってきた。

すると、それまで人っ子一人見なかった私の前に、
腰を曲げたおばあさんが、ゆっくりと歩いてきた。

「あぁ、あそこなら、町内会長さんが鍵持ってますよ」・・・

などという、嬉しい言葉を期待していたが、
返ってきた言葉は、
「あのお店に声掛けはったらよろしいいわ」・・・と言う、
ある意味、当然といえば当然の答えが返ってきたのだった。

これで、お好みさんの管理が決定的になったわけで、
その肝心のお好みさんが居ないことにはどうしようも無いので、
私は、このフィールドワークで見出した幾つかの疑問を晴らすべく、
その足で、北山十八間戸の研究に明るい
『奈良県同和問題関係史料センター』へと向かった。

【その3へ続く】
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2016年3月9日水曜日

坂に佇む最古級の救癩所~奈良・北山十八間戸:その1/見て記行って記被差別歩記-4

坂・・・

坂は、まだ見ぬ新しい土地への玄関口であり、
文化の流入点でもある。

他の国から人が入り、そして出て行く。
他の国で作られた物が、坂を通ってこの国に入り、そして出て行く。
坂には、関所が設けられ国を守る要所にもなった。

だから、昔から坂には人が集まり、物が集まった。
人が集まるところに、更に人が集まるのが自然の摂理である。

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奈良に本格的な春の訪れを告げる東大寺の「お水取り」を前に、
冬籠りで閑散としていた奈良の街にも、
ようやく行き交う観光客の活気が戻ってきた。

2月中旬。
私は、久しぶりに『坂』へ向かった。

『坂』には、過去3~4回訪れている。
前回の訪問から、おそらく3年は経っているだろうが、
数百年間も風雪に耐え忍んできたその建物は、
3年ほどの月日では、前回訪問時と、
何も変わらない佇まいを見せていた。

ここは、奈良坂。
奈良阪という名が示す通り、
この坂は奈良県を代表する坂である。

かつて、大阪へ続く西之阪に対し、
奈良阪は東之阪とも呼ばれ、
その先は、京の都に続いた。

坂には、そのものズバリ『坂』、或いは『坂の者』、
又ある時には、『宿・夙(どちらも読みはシュク)』
と呼ばれる集団の本拠地があった。

やがて彼らは、近世の身分制度下では、
広義に「非人」と呼ばれひとくくりにされるが、
宿の成立自体は意外と古く、
既に、中世頃には、宿が形成されていたと言う説が有力である。

ただ、宿の形成には、まだまだわからないことが多く、
いずれも、有力な“説”の一つであるのだが、
少なくとも、その構成に大きく携わったのが、
癩者(ハンセン病患者)であったことは間違いない。

今でも続く元ハンセン病患者への差別・・・
いや、
この話を語る前に、もう一度ハンセン病のおさらいをしておこう。

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ハンセン病は、かつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、
その病状から、有史以来、我が国のみならず、
世界各国で差別の対象とされてきた歴史がある。

ハンセン病は、らい菌による細菌性の病で、
感染力は極めて弱いが、人から人へとうつる伝染病である。

ただ、感染力は極めて弱く、幼少期に頻繁にらい菌保有者と
接触しない限り、発病まで至るケースは少ないが、
ひと度発症してしまえば、その病状は劇的で、
手や足の発疹から始まり、神経麻痺、
皮膚のただれや壊死などで手足を失い、
顔面の変形や失明などで姿形が著しく変わることから、
古の頃より、ハンセン病は「業病」と言われ、
『前世の行いが悪かった』・『信心不足』・『呪い』など、
その人の悪行によりかかる病として、
人々の畏怖の対象であり、差別の対象であった。

ハンセン病患者自身も、輪廻転生・因果応報と、
その境遇を恨み諦めた。

又、遺伝性の病気であると長く信じられ、
明治期に施行された「らい予防に関する件」と言う法律により、
らい療養施設への強制隔離政策が取られ、
家族とも引き離され、文字通り強制収容された。

しかし、療養施設とは名ばかりで、
そこは、シベリア抑留所さながらの強制労働施設であり、
多くの患者は、病気を悪化させ、
療養所内で命を落とすものも少なくなかった上、
遺伝性の病気であるという理由から、
子供の強制堕胎や断種(所謂パイプカット)が、
患者の意思なしに、強制的に行われた。

ハンセン病は、栄養状態が悪いと感染しやすく、
アフリカなどの発展途上国では、
現在もこの病の発生が深刻な状況であるが、
戦後、急速に生活環境が向上した我が国では、
新規患者はほぼ出ておらず、もはや過去の病気になりつつある。

又、1943年にハンセン病の特効薬「プロミン」が生まれると、
ハンセン病の治癒が容易に行われ、
“不治の病から、治る病気”へと変化を遂げた。

しかし、差別は残った・・・。

それは、今も尚、綿々と続く差別と後遺症で、
治癒に成功し、菌陰性者となった方々も、
社会復帰どころか、家族にさえ未だに会うことが出来ないという。

十数年前に熊本のホテルで起きた、
元ハンセン病者への宿泊拒否事件は、
メディアによって大々的に報道され記憶に残っているが、
報道に乗らない小さな差別は、現在も日常的に起こっている。

最も、先程も書いたように、
新規の患者が殆ど出なくなって久しい我が国では、
元ハンセン病患者の方々もかなりの高齢になっており、
親族と縁を切り、断種や堕胎によって子を持たぬ身の上では、
到底生活もままならないため、
療養所から出たくても出れないのが現状なのだ。

これも、長く続いた国の差別政策の結果といえるだろう。
ハンセン病が根絶し、療養所の必要性が無くなりつつある今、
今も療養所で暮らす元ハンセン病患者さんは言う。
「近い将来、我々が死んでしまったらこの施設はどうなるのだろうか?、
仲間や、妻が眠る納骨堂の面倒を誰が見てくれるのだろうか?・・・」

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さて、話を続けよう。
冒頭、坂には人が集まり、
それが更に人を呼ぶと書いたが、
ここ、奈良阪の場合は、京の都へ続く坂。

人や物の流通も半端なく、
決して広く大きいとは言えない“大道”を
日々行き交っていたことだろう。

そして、その行き交う人々に「更に呼ばれる人」、
それが坂の者だった。

つまりはこうだ。
当時、自活することが出来ない癩者や障がい者、
又、浮浪者などの社会的弱者は、
施しを求め、より多くの人々が往来する「坂」周辺に集まりだした。
やがて、時代と共に、それが組織化され、集団化していった。

坂の者の成立は、このように自然発生的なものであったと考えるのは、
当然の成り行きではないだろうか。

【その2へ続く】
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2016年2月25日木曜日

ジブリ・宮﨑駿氏ハンセン病を語る:その2~ハンセン病と被差別部落

かつて、ハンセン病は、日本では癩病(らいびょう)と呼ばれており、
世界的に見ても、間違った認識や偏見から、差別や畏怖の対象と
されてきました。

その歴史は相当古く、日本書紀『推古天皇』の項には、
既に「らい」の記述が見られます。
おそらく、有史以来、世界各国でも差別の対象になっていたことは
間違いありません。

日本国内でも、その病史を紐解けば、
既に、聖徳太子の時代に建立された「悲田院」の周りに、
癩者をはじめとした、非人のルーツに繋がる人々が生活しておりました。

癩病が恐れられた原因の一つが、その病変で、
癩病にかかると、神経の麻痺や皮膚のただれや壊疽などで、
顔や身体の至る所が変形ないし、損失し、
健常者とは大きく風貌が変わることから、
「業病」と呼ばれ、恐れられてきました。

医療が確立していない太古の時代
『“業病”は、前世の悪事で起こる病気』と長く信じられており、
その考えは、世間のみならず、患者自身も同じような認識でした。

又、同時に癩病は、後世に繋がる遺伝病であると考えられてきました。
そのため、癩者は輪廻転生・因果応報と自身を恨み、
仏教にすがる事で、この現状を打破しようとする動きが見られましたが、
実は、癩病(=ハンセン病)はらい菌による感染性の伝染病で、
西洋医学会では、既に1873年(明治6年)に、
ハンセン氏がらい菌を発見しており、
癩病は細菌性の病であるということがわかっています。
なおかつ、伝染病であっても、らい菌の感染力は極めて弱く、
仮にらい菌を取り込むようなことがあっても、
その免疫力で、ほとんど感染に至ることはないそうです。

しかし、日本では、まだまだ上記のような考えが主流を占めていたわけです。
私が以前読んだ、元ハンセン病患者「近藤宏一」氏の著書“闇を光に”の中には、
驚くなかれ、そのような考え方が昭和に入ってからも、
世間一般の認識であったことが書かれています。

ただ、感染力が弱く、発症しにくい病気であっても、
ひと度発症してしまえば、治癒が困難で、
非常に厄介な病気であることに間違いはありませんでした。

医学の進歩とともに、ハンセン病治療の研究が重ねられ、
やっとのこと1943年に、癩病治療薬「プロミン」が開発され、
癩病は不治の病から、治る病気へと劇的な変化を遂げました。

我が国でも1947年には、それまで主流であった
植物由来の「タイフウシユ」と言う、大して効き目のない薬に変わり、
プロミンの治験が始まりました。

しかし、その間、国をあげて、悲惨極まりない『差別施策』が取られてきたのです。
例えば、明治40年には、“らい予防に関する件”と言う法律のもと、
癩患者は強制隔離されるのです。

家族は、近所へ知られるのが嫌なことや、
患者との離別を惜しみ、納屋などへ患者を匿いましたが、
内務省は警察権力と結託し、近所の噂などで患者を見つけ出し、
強制的に施設へ入所させました。
現在でも〇〇園などと存在するハンセン病療養所がそれです。

療養所とは、名ばかりで、一度入所してしまえば、
ほぼ、園からの出所は不可能で、
死ぬまで、園の中で暮らすことになります。

そのため、園には、食堂や宿舎と言った基本的な施設の他に、
学校や売店、果てには火葬施設に納骨堂まで完備されていました。

そのため、例えば、恋愛や結婚も入所者同士で行われましたが、
優生保護法により、子供が罹患するのを防ぐ意味で、
断種(所謂パイプカット)や堕胎が、
患者の意思無しで強制的に行わていました。

それ程までに、癩病は社会的にも差別を受け続けていた病なのでした。

いにしえより、癩病は、業病とされてきたのは、先に申したとおりです。
そして、長きに渡り社会的に差別を受けていたのも紛れも無い事実であります。

江戸時代には、癩者は非人身分に組み込まれ、
後に穢多村の支配下にあったことは間違いありません。

江戸期以前にも、そのような弱者(身障者やその他の罹患者、経済的困窮者)は、
賤民という認識がなされてきました。

実は、被差別部落の起源は、未だ解明されておらず、
ハッキリとしたことが、わかっていないのが現状です。

しかし、私の私見ではありますが、
そのような弱者が、後世の被差別部落民へと連なったと考えるのが
自然ではないでしょうか?
(被差別部落民の根源は、朝鮮半島などからの移民だという説もあるようですが・・・)

いずれにせよ、癩病者と被差別部落の繋がりは、
かなり深いもであったことは確かであると信じてやみません。

おまけに、国策により、長年差別されてきた歴史も、
被差別部落とかなる部分が多いですね。

そんな、国策差別が、平成の世に入っても続けられてきたこと、
皆様は信じられますか?

1960年台には、プロミンの効能が認知され、
一時退所者もいるにはいたのですが、
基本的に平成8年に、らい予防法が廃止されるまで、
このような、信じがたい事実があったのです。

====================
以上、かいつまんでですが、
癩病についての歴史と被差別部落との関係を書いてみました。

次回の「見て記・行って記・被差別歩記」のコーナーでは、
鎌倉時代から続く、奈良県の癩収容施設「北山十八間戸」を
レポートいたします。
乞うご期待。

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