~~~はじめに~~~

         「被差別部落」…皆さんはこの言葉を聞いてどう思われますか?
私が、このブログを始めることにしたのは、職場で「○○地区は危ない」などと
“心無い会話”が聞こえてきたからでした。それも複数の方から…。政策的には、約150年前に「解放」されたはずの被差別部落ですが、職場だけではなく、インターネットやパルプマガジン(低俗雑誌)などで、今尚、多くの差別があることを実感します。被差別部落出身の妻と結婚し、部落の暮らしを知る中で「部落の良さや暖かさ」を皆さんに伝えたいと思います。

2019年12月27日金曜日

同和事業を放棄した部落~ある未指定地区の話

被差別部落は行政上、2つの地区に分けることができます。
もちろん行政上のことですので、どちらも被差別部落であることには変わりません。

◎同和地区・・・
過去、同和事業を受け入れ(運動団体的に言うと「勝ち取り」)、税金によって住環境の整備・生活の向上が図られた被差別部落。
(現在、同和事業は終了しましたので、言葉は適切ではないかもしれませんが、
慣例に従い、同和地区とさせていただきます)

◎未指定地区・・・
同和事業を放棄し、自主的改善を行った、或いは改善等を行わずとも、ある一定の生活水準を維持できた被差別部落。
(厳密には、同対法以前に社会事業の下、同和事業が行われた例があるが、大規模な地域改善というよりも、小規模な補修程度のものが多い)

私事ですが、縁あって現在は未指定地区に居を構えております。

なるほど。
未指定地区は被差別部落でありながら、同和事業を放棄した地区でありますから、隣保館や浴場と言った、所謂同和モニュメントが一切ありませんし、住宅も一般的な戸建住宅です。
私の居住部落も元々50戸程の小さな被差別部落でしたが、住宅難の高度成長期を経て400戸迄に膨れ上がり、住環境的には被差別部落と一般地区の境をなくしました。
しかし、差別の壁は越えることができませんでした。
いや。一時は超えるかもしれないと思っていたのですが、例の「全国部落調査」にて蘇ってしまいました。

私見としては、部落を無くすのではなく、差別を無くすと言うスタンスです。
部落には非常に素晴らしい文化や技術、担ってきた役割があり、現在の我々の生活に於いても様々な分野で、その技術等が用いられています。

そういった面からも、部落というものを卑下することなく、むしろ誇れるべき存在であると考えます。
いつか、私の子達も声を大にして「私のルーツは部落です!」と言える日が来るのを望んでやみません。

さて、少々話が脱線しましたが、本題に戻しましょう。

同じ被差別部落でありながら、一方は同和事業を受け入れた同和地区と、事業を放棄した未指定地区に別れたのでしょうか?

各部落によって理由は様々ですが、概ね「自立するだけの資金力があった」と言うのは、
多くの未指定地区で聞かれる話です。
勿論、部落内でも資金力の差があったことでしょうが、地区内の実力者や多勢に無勢で受け入れを放棄せざるおえなかったという部分はあったでしょう。

また、地方においては(特に農漁山村)部落戸数が数戸という極小規模の被差別部落も多く、同和事業の窓口となる運動団体が組織できない部落もありました。
あとは、政治・思想的な部分もあったでしょう。

本日紹介するAさんは年の頃60代後半。
関西の、ある政令指定都市の被差別部落で生まれ育ちました。
現在では住宅が立ち並ぶ地区周辺も、昔は15戸程の小さな部落だったと言います。

『差別?う~ん。。受けたことなかったですね。』

幸い、ご自身は差別を受けたことがないせいか、柔らかい物腰と笑顔でお話されています。しかし、部落の事、先祖の事は常に気にかけておられ、被差別部落の勉強は欠かさないとのこと。

「同和事業を受け入れず、未指定地区の道を歩むことになった理由は何でしょうか?」

『それが、よくわからないんですよ。ただ言えることは、ムラ全体は貧しくなかった。農家でね。小作じゃなくそれぞれが自分の田畑を持っていました。』

「ムラで同和事業の話は出なかったのですか?」

『出なかった・・・と思いますよ。聞いたこともなかった。他部落や運動団体からのオルグも無かったと思います。もしかしたら来ていたのかもしれませんが、自分の耳には入ってこなかったし、家族の間でもそんな話は無かったですね。』

『ただ・・・』と話を続けるAさんの口から、同和事業を受け入れなかった"部落気質"の片鱗を垣間見ることができました。
それが次のエピソードです。

『小学校の頃、同じ部落から通っている同級生が3人居ましてね。いつだったか、先生が鉛筆やら消しゴムをくれたんですよ。「何で僕らだけにくれるん?」と聞くと先生は「キミらは遠いところから来てるやろ。そやしご褒美や!」と言って。』

「同和事業前でも学用品の補助があったわけですね。」

『それが、一緒に持って帰った同級生の父親が火が点いたように怒ってね。それはもう凄かったですよ。「ウチは物貰いちゃうぞ!!!」って。』

「なる程、そういった部落気質が後の同和事業を受け入れなかったことに繋がるのでしょうか?」

『それはあったと思います。農家で自立していましたから。周りの大人達にはそういった思いがあったのかもしれませんね。』

短い時間でしたが、ある未指定地区の話をAさんにお伺いしました。
全国に数多ある被差別部落が、同和地区指定を受けて同和地区になる、また地区指定を受けずに未指定地区の道を歩むのは、それぞれの部落により理由は様々で、とてもじゃないですがステレオタイプで語れないところがあります。

Aさんの部落でも、あくまでも推測の話で、もしかしたら違う理由で同和地区指定を受けなかったのかもしれません。

ただ、同和事業を受けた地区が劣っていて、地区事業を受けなかった未指定地区が優れている等という事は全くありません。
部落には様々な事情があったのは先に述べたとおりですが、同和事業を本当に必要とした、当時の住環境・生活の劣悪さは、もはや自力改善出来ないレベルまで至っていたことは確かなのです。





今にも崩れそうな家々、常に氾濫の危険に晒された川の上に建つ住宅、一度火事が出れば消防車も入れない密集住宅、トイレや台所もなく共同利用・・・etc

中学校時代、同和地区から同級生が通い、その「優遇された(と思っていた)」事業に疑問を持っていました。
しかし、部落のことを知り、学び、理解するうちに、本当に必要な事業であったことに気が付きました。

ただし一方で、同和事業は非常に許しがたき事態を招いてしまいました。
それが同和利権と呼ばれるものです。

私は、同和地区住民がおしなべて住環境・生活の向上を享受する同和事業を「権利(ケンリ)」と考えています。しかし一方の「利権(リケン)」については、一部の特権階級や、部落とは全く関係ない者までもが魑魅魍魎と同和利権に群がり、公金をせしめてきました。

このことが、他大多数派の被差別部落民(・・・運動団体に所属しない方々も多い。今では運動団体所属派は少数)すべての部落民が行った"悪事"であるかと思われるケースがあることを非常に憂います。
同和事業が終結し、今では完全に一般地区と同じく「一般施策」が取られている"(旧)同和地区"ですが、未だ事業が継続していると思っておられる方も多く見受けられます。

それらの誤解を解くために、微力ながら私は活動しております。